« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月31日 (火)

勝ち組も二通りある

近年、世の中は勝ち組と負け組みに

分かれるようになったという。

その意味はどこにあるのか。

単にカネを持っているか、持っていないか、

だけに焦点があてられてはいないか。

もし、そうだとするならば、

物事の一面しか見ていないと言えるだろう。

勝ち組と言われている中には、

カネをたくさん持つことができた人、

だけではなくて、

自分が納得できる生活を送っている人も

勝ち組と呼べるだろう。

むしろ後者の方が人生を眺めてみたときに、

真の勝ち組と呼べるのではないか。

我々の生き方と言うのは、

ある意味では視野狭窄に陥りやすいのである。

周囲がそうだから、それに自然と合わせるようになる。

仕事の効率ばかりを追求していると、

いつの間にか、

感情の抜けた人間になってしまう。

電車の中で、サラリーマンの顔を見るとよくわかる。

無表情な顔ばかりだ。

きっと会社では一心不乱に、

仕事をしているのだろう。

帰宅電車の中は抜け殻か。

自分の人生はこれしかないと考えていると

それしかない。

それは同じところに留まっているからだ。

少し角度を変えて、

別方向から自分のあり方を、

眺めてみると、硬直している自分が

よく見えるはずだ。

別方向から見てみるということは

いつでも大事なことだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カネとヒマとはトレードオフの関係だ

カネがあるときは暇がない、

暇があるときはカネが無い・・

よく言われるフレーズだ。

仕事で日々多忙な生活を送っているときには、

暇ができたらあれをやろう、これをやろう、と

考える。

こんどは暇ができるとカネが十分ではない。

カネも暇もというのは、実はなかなか難しいのだ。

カネを犠牲にして自由になる時間を持つ。

自由になる時間を犠牲にしてカネを稼ぐのである。

カネと暇とは二者択一の関係、

トレードオフの関係にある。

あちらを立てれば、こちらか立たず・・

しかし、言えることは、

私たちは、カネばかりに目を奪われがちであり、

時間に対してたいして重要とは思っていないように

見えるということだ。

この点は反省してもいいのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

長く生きたのではなく、長く有ったにすぎない

ローマ時代の哲学者のセネカが、

恐い言葉を残しているのを偶然知った。

「髪が白いとかシワが寄っていると言っても、

その人が長く生きたと考える理由にはならない。

長く生きたのではなく、長く有ったにすぎない。」

セネカは、なんと2,000年前の人間だ。

セネカは言う。

「ますます良い生活ができるようにと、

ますます多忙をきわめている。

生活を築こうとしつつ、

生活を失っているのだ。」と。

私たちは誰でも生活に追われている。

というより、なぜか多忙だ。

知らぬ間に、髪に白いものが

増えていることに驚いたり、

髪が薄くなっていることを発見して

愕然となる・・・

つい、こんな感じで歳を重ねていって

いいのだろうか、

こんな生き方で歳をとってしまって

いいのだろうか、

と考えてしまう・・

世の中は生き方はたくさんある。

このあたりで今までとは異なるパラダイムで

人生を眺めてみることもありなのでは・・・

とは言っても、長い間の慣習は

簡単には変えられない。

世の中全体がそうだからだ。

でも本当は世の中の主流とは、

異なる生き方があっていいのだろう。

我々の時代は有無を言わさず、

いい成績を取って、いい学校に入り、

いい会社に入って毎日せっせと

定年まで仕事に勤しむ。

そんな生き方が是とされてきた。

しかし今や、米国に次いで、

生活水準では2番目だ。

近年、「富」の追及し過ぎが問題にもなった。

このあたりでいろいろな生き方ができるように

なってもいいのだろう。

では、自分にはできるのか。

少なくとも、可能性を探ることは

できるし、いいことだと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月25日 (水)

「写楽」展 上野

上野の国立博物館の近くまで

行くことがあったので、

ついでに今、公開中の

「写楽展」を見た。

「写楽」については、

過日NHKで浮世絵に関する番組があり、

その中で写楽はいったい誰なのか?

(現在でも特定されていない)

という投げかけに、見に行きたいなあと

考えていたところだった。

写楽の浮世絵は、4期に分かれている。

1期の浮世絵と残りの3期では、

「絵」そのものが異なっているのだと言う。

つまり、写楽は全部で「4人」存在していたのでは

ないか、という大胆な推理だ。

我々がよく目にする「浮世絵」は、

第1期の写楽の作品である。

一般に「大首絵」と言われていて、

役者のドアップである。

署名にしても、第1期の絵には、

ちゃんと「東洲斎写楽」と入っているが、

2期以降の絵には「写楽」としか入っていない。

「東洲斎」が書かれていない。

実際に絵を見ながら確かめてみた。

確かに東洲斎写楽と書かれているのは

第1期作品だけだ。

しかも第2期以降の署名「写楽」は、

明らかに「字体」が第1期の「字体」とは

異なっていた。

もうひとつの異なる点は、

役者の「耳」の描き方だという。

第1期の東洲斎写楽の絵では、

役者の「耳」は、

どれも「4本」の線で描かれていた。

しかも描き方は皆同じだ。

しかし、第2期以降の役者の「耳」は、

3本だったり、5本だったりしていた。

写楽の候補には4人いるが、

最も可能性が高い人物というのは、

プロの絵描きではないのである。

おそらく歌舞伎関係の、

今で言えば、「スタッフ」だろうと、

言うのである。

あれだけの「大首絵」を描けるのは、

役者のすぐ近くで何度も

見ていなくては描けないというのだ。

何度でも役者をすぐ目の前で見ることのできる人物、

それは「スタッフ」ではないか、

というのである。

写楽は突如、登場したと思うと、

たったの「10ヶ月」で忽然と姿を消してしまった。

これも何故なのか、わからない。

写楽の正体が、歌舞伎関連のスタッフで

あったとして、

プロの絵描きでない者が、

あれだけの見事な絵を描く、というのも

不思議だ。

写楽はいったい誰だったのか?

実際に絵を目の当たりにすると、

ますます興味津々になってきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月21日 (土)

児玉清さんの「負けるのは美しく」

児玉清さんが急逝された。

爽やかな俳優さんであったと思う。

テレビで拝見すると、

なんとなく親近感が湧いた俳優さんだった。

もっともっと私たちを楽しませて頂きたかった。

「負けるのは美しく」というのは、

児玉清さんの書いた本である。

自身の俳優生活を振り返ったものだ。

タイトルに惹かれた。

「負けるのは美しく」・・

いったいどういう意味を込めたのだろう?

そう思うと読んでみたくなって手に入れた。

その意味は意外なものであった。

本の中で、児玉清さんは、

「僕の俳優の道は、いつも、

もやもやとした敗北感といったものに

包まれていた。」という。

「勝った!やった!という気持ちに、

なったことがなく、終われば絶えず苦渋のみが、

残るばかりだ。・・・・・知らぬ間に心に期するように

なったのが、「負けるのは、美しく」ということであった。

どうせ勝利感を得られないのなら、また明確な

勝利も望むべくもないのなら、いっそ、せめて

美しく負けるのを心掛けたら、どうなのか、

そう考えたとき、はじめて心の中に平和が

訪れた思いがしたのだ。

以来、「負けるのは、美しく」は、僕の

モットーとなった。」

と氏は書いている。

そうか・・・、そうだったんだ。

あれだけ自信があるように見える児玉清さんで

あったが、心の中は常に忸怩たる思いで

満ちていたということだろう。

ますます、惜しい俳優さんをなくしてしまった、

という喪失感が強くなるのを感じた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月18日 (水)

苔庭

佐藤藤右衛門という庭師を

ビートたけしが訪れるという番組を見た。

ある京都の旧家の庭・・・

庭師の藤右衛門さんは、

敢えて、花が咲く木は一切植えなかった。

代わりに庭一面に、苔を植えて

苔庭とした。

ところどころに小さな岩が敷いてある庭だ。

確かに、苔色一面の庭は、

眺めていると、なんとなく気持ちが落ち着く。

この庭は、ごく親しい人同士が、

ゆっくりと語らい合うための庭として、

作ったのだと語っていた。

花木が1本も無い庭、

おそらく日本人にしかわからないような感覚なのだろう。

それにところどころに、「いい石」、

「いい石」が置いてあると言っても、

外人にはわからないだろう。

こんな庭を見ていて、

少しはわかるような気がした。

わかるような歳になった、というのが、

正解か・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月13日 (金)

日本の医療業界も過渡期にある

コンサルティングの関係で、

病院に出入りすることがある。

一般にはなかなか事情がわかりにくい業界だが、

なかなか大変な時にあることがわかってきた。

今、日本の医療業界は危機に直面していると

言われている。

少子高齢化社会に突入したことで、

最初に産科医が、経営のピンチに、

その次に小児科医が経営のピンチに

立たされてきており、

産科医と小児科医が共に

その数が減ってきている。

近年では、新しいインターン制度の開始によって、

大学の医局がほとんど機能しなくなってしまい、

地方にある総合病院では、

従来のように若い医師の供給が

得られなくなってしまったという。

新しい研修医は、

病例も多くて、研修環境も整っている大都市の

私立総合病院を希望するからだ。

インターン期間が終了しても、

そのまま大都市の総合病院に残る傾向に

あるそうだ。

大学病院としては地方の病院から

医師を引き上げて再び体制の

建て直しを図ろうとしているそうであるが、

どちらかというと封建的な体制では

無理があるようだ。

若い医師にとって、

従来は病院で勤務医をしているほうが、

自分で医院クリニックを開設するよりも

人気があったという。

総合病院にいれば、

専門分野の知識や技術をレベルアップすることが

容易だからだ。

特に今日では、外科は個人では行う時代では

無くなっているのだと言う。

すでに外科はチームでしかできなくなっているそうだ。

したがって、これまでは開業医の後継者が、

なかなか後を継いでくれないという話が

あちこちで聞かれたそうである。

ところが、である。

大学からの医師供給が途絶えてから、

スタッフ数の減った病院においては、

仕事量がどんどん増えており、

慢性的な過労状態にある医師も多いという。

したがって、「こんなに仕事が多くて、給料が安いなら

自分で開業したほうがいい」と、

開業に転ずる医師が増えているのだそうだ。

そして最近の開業医のやり方としては、

症状の比較的軽い生活習慣病がメインであるそうだ。

外来検診で診断のつかないような難しい病気については、

総合病院に紹介しているのだという。

治療して医療ミスで訴えられてはたまらないからである。

先日、NHKを見て医師に病院を紹介するエージェントが

いることを知った。

番組の中で若い医師は、

「夜中の救急の宿直が無くて、月給が150万の病院を

紹介してほしい」と、

語っていたのが印象的だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月12日 (木)

スカイプ・デビューしました!

本日22:00から、

仕事の打ち合わせを初めてスカイプで

行うことになった。

全員で4名だった。

事前に「スカイプ」はダウンロードしていたが、

なにせ実際に「使う」のは初めて・・・

時間になって繋ごうとしても、

いくらやってもつながらない・・・

私以外の3名は順調に会話が

できているというのに・・・

情けない・・・・

仕方がないので、私だけ、携帯電話で参加・・・

こんな状態が40分ほど続いた。

他の3名のメンバーと携帯電話で

話しながら、ひたすら試行錯誤を

した結果、

やっとこさ、つながりました。

なんと原因は、極めて単純、且つシンプル

それまでスカイプ画面で、

クリックできないと思っていた部分が、

じつはクリックすることが可能だった。

てっきり「手のひら」印が出ないと、

クリックしても飛ばない(リンクしていない)と、

勝手に思っていたが、

スカイプ画面には、

特にウェブ画面のように、

「手のひら」印が出ないのですね。

出なくても、ちゃんとリンクしていて、

クリックすると次の画面が出てくるのでした。

これが分からずに、

「つながらない・・・つながらない・・」と、

一人でぼやいていた40分間・・

あ~あ、疲れた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月11日 (水)

臨死体験

以前、立花隆氏が世界中を訪ね歩いて

まとめた書籍で、

「臨死体験」という本を読んだことがある。

臨死体験の内容としては、国内外と問わず、

かなり普遍的な共通項があるという。

「自分は死んだ」という感覚。

ベッドに横たわる「自分」を部屋の天上の隅から眺めている自分。

真っ暗なトンネルを歩いている。

誰か知っている人に出会う。

声が聞こえてくる。

自分自身の過去がパノラマのようになって、

目の前に展開する。

まぶしい光に包まれる。

幸せな気分に浸る。

本を読んだときは、このような臨死体験は

本当にあるのだろうと考えた。

しかしながらこのような臨死体験のひとつひとつの要素と

いうものは、脳生理学の上からちゃんと説明可能だという。

つまり、死のストレスが限界を超えると、

大脳皮質の機能不全に伴って、

意識の低下、痛みの軽減、体外離脱感覚を生ずるという。

大脳辺縁系は抑制が外れて活性化する。

すると幻覚や人生がパノラマになって目の前に、

写し出されるという。

死のストレスが限界を超えると、

大脳皮質の機能不全に伴って、

意識低下や痛みの軽減、体外離脱感覚を

生ずるのだという。

大脳辺縁系は世kス栄がとれて活性化し、

幻覚や人生パノラマとなって写し出される。

血中酸素濃度の低下と二酸化炭素の上昇は、

エンドルフィンやセロトニンの分泌を

促すことで多幸感をもたらすのだという。

そして、脳領域の各所で起こる無秩序な神経放電が、

光体験を作り出すのではないかと言われている。

果たして臨死体験はあるのか、

それとも、すべては脳の中の世界なのか、

脳の中の出来事だとすれば、

いかにも味気ない。

ここはやはり幽体離脱はあると思いたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミトコンドリア

高校の生物で、

私たちの細胞内には

細胞内呼吸に関与している、

ミトコンドリアがあることは

知っていた。

しかしこのミトコンドリアは、

なんと元々は、酸素呼吸に特化した

単細胞生物であったという。

しかし人の進化の過程で、

人の細胞内に取り込まれ、

細胞の一部となってしまったのだという。

もとは単なる単細胞生物で、

人の細胞組織では無かったのだ。

う~ん、そうだったんだ。

始めから細胞組織の一部だとばかり思っていた。

このミトコンドリア、

その役割は、厳重なカプセルの中で、

高エネルギーを生産する「原子炉」のような

存在なのだという。

厳重なカプセルというのは、

人にとって有害な「活性酸素」が

細胞内に漏れないように仕組みが

できているのだそうだ。

しかし、あたかも放射能が原子炉から

漏れ出すように、

ミトコンドリアから「活性酸素」が

漏れ出すと、

人の細胞構造を錆びつかせるのだそうだ。

この過程を「老化」というのだそうだ。

ミトコンドリアが福島の「原子炉」と同じような

役割を細胞内でしていることを知った。

人間社会の出来事と、

細胞内での出来事、

極大な現象と極小な現象、

あたかも相似形であることに少し驚いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 1日 (日)

石川遼「アスリートの魂」を見た

昨日、NHKの「石川遼 アスリートの魂」を見た。

今、石川遼選手は、アメリカのツアーに、

2ヶ月間という長丁場で参加している。

過去2年間、2回とも予選落ちだったツアーだ。

ちょうど出発したのが2月頭だったらしい。

今年で3年目3回目の挑戦となることから、

今度こそは予選を通過したいと考え、

例年の練習量を3倍にしていたという。

その底流にある想いは、

今年は「日本代表のつもりで頑張る!」、

という固い決意だったと語った。

例えば、石川選手の得意なドライバーショットの

練習では、通常100本で止めていたのを、

今回は300本も毎日打ち続けて調整していた。

その甲斐があって、なんと初日で、

第2位につけた。

すばらしい!

アメリカの並み居る強豪の中で、

19歳の石川遼選手が、堂々の2位!

今年は調子が良いと自分でも語っていた。

ところが・・・、

予期せぬことが起こった。

3月11日の東北大震災だ。

彼自身がニュースで見て

驚いたと同時に、

米国の各メディアが一斉に、

彼にコメントを求めてきたのだ。

参加に当たって「日本代表のつもりで頑張る」と、

述べていたことから、各メディアも、

石川選手の考えを聞きたかったのだろう。

いきなり数十局からマイクを向けられて、

彼はコメントに悩んでいた。

実際、被害が1,000人と発表されていた時点で、

さらにこれから被害が拡大するだろうという報道の

中でコメントしなくてはならない。

何と言っていいかわからない、という彼の苦悩が

顔に現われていた。

その顔は、とても19歳に見られないほど、

しっかりと事実を見て考えている立派な姿に見えた。

彼も今回の大震災が相当、心に響いたらしく、

翌日から考えられないようなミスを連発してしまったのだ。

18ホールでは、

なんと初めて8打も叩いてしまったのである。

自分でも「いったい僕は今なにをやっているんだろう」と

思ったと後から語っていた。

それから石川遼選手は悩んだという。

そして、あの発表をした。

今年のツアー獲得賞金は

全て被災地への義援金にする、という発表である。

彼はこの発表をするに至って、

どうしたら自分は被災地の人々に力を貸すことが

できるだろうかと悩みぬいたと言う。

そして、この結論に至ったことで、

彼は「これで被災地の皆さんとつながることができたと思う」

と語った。

自分がツアーで頑張れば頑張るほど、

被災地の皆さんへの義援金が増える、

ということだ。

とても19歳とは思えない深い想いであると思った。

そして翌日からのツアーでは、

再び調子が戻ったのである。

精神的に折り合いがついたのだろう。

そして、ついに今回のツアーでは、

無事に予選を通過できたのだった。

今年の石川遼選手には、

目が離せない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

心の武装

本で読んだ話だが、

アメリカのあるカルト集団では、

信者の勧誘の際に、

「追い越し車線(イン・ザ・ファスト・レーン)」

を走っている人を狙えというスローガンが、

あるのだと言う。

高速道路には、

走行車線と追い越し車線がある。

追い越し車線とは、前方に走っているクルマを、

追い越す場合に一時的に走る車線だが、

人によっては、

この追い越し車線を、

ずっと猛スピードで走るドライバーがいる。

わき目もふらずに、

ただひたすらに突っ走るような、

生き方をする人は、

いつも緊張感に捉われていて、

気持ちに余裕がないそうだ。

スピードを出せば出すほど、

緊張するし、ストレスも溜まる。

それでも他人より、

少しでも早く、

他人を追い越していきたい、

と考える人。

ところが、このような、

「追い越し車線突っ走りタイプ」の

深層心理を分析すると、

その行動とは正反対に、

走行車線でのんびりと走りたい、

という願望があるのだという。

本人はじつは、

追い越し車線の人生にどこか、

虚しさを感じているのだ。

そして、そこが、

カルト集団のまさに狙っている部分なのだという。

つまり、こんな人の深層心理に

カルト集団が、耳元で、そっと、

異次元の楽な価値観を囁いてみせると、

いとも簡単にカルト集団に取り込まれてしまう、

のだと言う。

人は日々、見栄を張ったり、いらぬプライドで

武装した時間を送っている。

現代のような勝ち負けの見える社会では、

なおさらだろう。

でもほんとは普段の自分で生きたい、

弱音を吐きたい、という欲求が、

心の底に沈殿している。

その心の沈殿物を、

そっとすくわれると弱いのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »